祖国の解放
一方、「後方の安全」を維持しようと朝鮮人民革命軍への大規模な「討伐」攻勢と朝鮮人民への暴圧と略奪の更なる強化へと移りました。
チュチェ29(1940)年8月、
チュチェ32(1943)年2月には、朝鮮人民革命軍の総攻撃とそれに呼応した人民あげての蜂起、全人民抗争組織の背後連合作戦を内容とする祖国解放の3大路線を示しました。
そして、祖国光復会の組織を全国的範囲へと拡大し、日帝に反対する全ての勢力を結集させました。
カンベク山一帯に集結した部隊は、予定された通路で進出して各道を解放し、極東の訓練基地にある部隊はピョンヤン地方を始め、各地に航空便で迅速に進出してすでに設けられた秘密根拠地を占め、電撃的な軍事作戦を展開するようにしました。
これと共に、国内で活動する朝鮮人民革命軍の小部隊と政治工作員は、抗争組織を大々的に増やして人民を全人民抗争に奮い立たせることにより、全民族が至るところで朝鮮人民革命軍の進撃に加わるようにしました。
最後の決戦を控えて、国内に多くの小部隊とグループを派遣した
命令が下るや朝鮮人民革命軍の各部隊は一斉に敵の国境の要塞を突破して戦果を引き続き拡大し、国内に派遣された小部隊とグループとの緊密な協同作戦で日帝の侵略武力と植民地支配基盤を撃破し粉砕しました。
朝鮮人民革命軍の猛烈な攻撃と全人民抗争によって、決定的な打撃を受けた日本帝国主義者はついに、チュチェ34(1945)年8月15日、無条件降伏しました。
正に